いきなりですがですが高校生の入学した頃を思い出してください。
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高校生1年生の4月、もしかしたら希望の高校に入れなかったかもしれない。「大丈夫!まだ身長のびるはずだから!」と少し大きめの制服を着ているかもしれません。
入ってからしばらくして、先生方はこんなことを言います。
「頭のいいところに入っておけば大丈夫だから!」
「研究設備しっかりしているし、とりあえず国公立大に行こう!」
その話を聞いて大学受験に向けてコツコツ勉強をし、高校3年生の時から一心不乱に勉強をしました。・・・特に将来の夢とか、やりたいこともなく。
大学受験が終わった4月上旬、あなたは大学に入学しました。
入学式で
「金が無いから国立、旧帝行きたかった。」
と思う。
新歓時期だし、みんな楽しそうにしているからこの悩みは誰にも言えない。
久しぶりに会った友人に「そういえば大学どこ?」と聞かれると、失敗した苦い記憶が心臓を引き締めつつ「○○大。」と言う。
そんな変えることの出来ない出来ない過去と一緒にいるうちに「この大学嫌い!」とか「もう通いたくない!」とか思う人がいる。その人たちは駆け込み先の一つとして「編入試験」を選びます。きっと編入試験に受かった後には今とは違う華やかな生活が待っていると信じて。
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そんな人たちを支援し続けて4年が経ちました。相談してくる人のDMから一刻もこの状況から抜け出したいのがひしひしと伝わります。分かるぞその気持ち・・・と言いたいだけど、苦労のベクトルってみんな違います。「え?そんなことで苦しんでいるの?」と思うことで苦しんでいることもある。僕だったらラーメンのすする音とか嫌でラーメン屋に行くと耳栓したくなります。人間分かりあえないのです。
前置きが長くなったのですが4年経った編入支援に対する独り言を垂れ流しをさせてください。
偏差値の教育どうにかならないかなぁ
競うの疲れませんか?、今少子高齢化ですし人も少なくなっています。
「あいつはこれが得意、だけど俺はこれが得意!」それでいいじゃないですか。1つでも何個でもいいから得意な武器持ちたくないですか?
カレーとラーメンどっちがおいしい?AさんとBさんどっちがいい?比べられないです。
これらの原因って偏差値がある大学受験を経たせいだと勝手に思ってます。大学っていいところ、悪いところがあります、その人にマッチすればいい。
落ちたって別でがんばろうとなればいい。人生では不測の事態、すなわち予期せぬ出来事は8割あるそうです。計画的偶発性理論といいます。
1通のDMごときで人の考えは変えられない
かつての僕もそうでした。
高校の先生に「今いる大学でできることないの?」と言われても「ないので編入試験受けるって何度も言っているのですが・・・。」と海底にいるウニの如く、人の意見を拒んでいた時期もあります。今なら先生の気持ちが理解できる・・・気がします。
たまたま受かったから良かったけど、落ちていたら「もう終わりだ人生」となって何もできなくなっていたかもしれません。
僕なりの答えですが、人の考え方を変えられるのは「挫折」と「長い時間」だけだと思います。
偏差値に洗脳された考え方を変えるのに、僕ができるのは情報発信し続けること。頭の隅っこに僕のDM,記事がそっと残っていればいい。きっとどこかで「あの記事に書いていたな」とか「DMで飛んできてた」とか思ってくれればいい。
今どうですか?
未来と過去は考えられるけど、今は考えることが出来ません。感じ取れるだけです。
「大学受験で失敗したので編入試験受けたいです。」
今どうですか?楽しいと思えることを見逃していませんか?この時期から編入試験を考えていると楽しい大学生活もつまらなくなるので、今楽しんでください。
正確に言うと4年と9ヶ月。最初はTwitterで質問を受け付けていました。今も続けています。DMが届いていると「こんな自分でも必要とされるんだ!」と嬉しい時期もありました。そのうち、悩んでいることってみんな一緒だなと思ってブログを開設し、記事を書き始めました。もともと国語の成績が良くなかったし、文才なんてない。と決めつけていたけど、気づいたら110記事を超えました。人生何があるか本当分からない。何が起こるか分からない人生だからこそ、今を一生懸命生きてください。
とふと思いついたので書きました。現場からは以上です。